キックの歴史

「全日本キック」から「ZONE」へ 全日本キック・アーカイブ

全日本キック

「全日本キック」から「ZONE」へ

「全日本キックボクシング協会」は、伝説の空手家 黒崎健時の目白ジム等が中心となり1971年に結成された。

日本人初のラジャダムナン王座獲得の快挙を成し遂げた藤原敏男をエースに据え、当時参議院議員の石原慎太郎をコミッショナーとして、最盛期には民放2局でゴールデンタイム中継され毎回高視聴率を叩き出す人気を博し、プロ野球や大相撲に匹敵するメジャースポーツとして君臨したが、ブームの終焉と共に1981年に解散を余儀なくされた。

1987年に約5年の沈黙を破り不死鳥の様に復活した「全日本キックボクシング連盟」は結成時に8つの名門ジムが加盟し7月15日にムエタイ5冠王のラクチャートと向山鉄也との対戦をメインイベントとして往年のファンの期待と声援を受け超満員の後楽園ホールにて旗揚げ戦が行われた。

その後はWKAとの全面的な提携を背景に、ボクシングWBC、WBO両世界ヘビー級王者を獲得したビタリ・クリチコをはじめ、帝王ロブ・カーマン、黒い爆撃機モーリス・スミス、喧嘩屋ピーター・スミット等、かつては不可能だった世界の最高峰の選手達を次々と日本に招聘し、当時のファンの度肝を抜いた。

1990年6月30日に日本武道館で行われた佐竹雅昭対ドン・中矢・ニールセン戦は、後に初期K-1を牽引する佐竹のキックボクシング初戦であり、ルールの解釈等様々な意味で物議を醸した一戦だったが、この試合が無ければ後のK-1ブームは無かっただろうと言われる、まさに記念碑的な一戦であった。

90年代中盤以降はK-1ブームの波に押される中、立嶋篤史 対 前田憲作のライバル対決等の名勝負を看板に健闘していたが、ニュージャパンキックボクシング連盟、J-NETWORK、キックユニオンと幾度にも渡る分裂や、土屋ジョー、立嶋篤史、そして後のK-1中量級の象徴である魔裟斗の離脱があり、連盟は再び存亡の危機に立たされた。

しかし藤原敏男の藤原ジムが全日本キックに再加盟した事が契機となり設立当初の「打倒ムエタイ」の理念に立ち返った事により、往年のファンを見事に呼び戻し、K-1には無いキックルールの奥深さを求めるファンをも新たに獲得した。

藤原敏男の一番弟子であり連盟の新たな大黒柱であった“野良犬”小林聡は、史上空前のK-1ブームの真只中、頑なに打倒ムエタイこだわり、数々の選手が眩しいスポットライトが当たるK-1への参戦を表明する中、何度ものオファーを断り、打倒ムエタイにその選手生命を捧げ、その決して逃げないファイトスタイルとスター性で全日本キックを支え続けた。

そして奇しくも三度目の全日本キック解散5年後の2015年、全日本キック魂の唯一の継承者である小林聡により「ZONE」が設立された。

「ZONE」は小林聡により「全日本キックのZがナンバー1」という意味が込められ、「K-1」が切り捨てた“肘打ち・首相撲有り”の「純正キックルール」を守り、打倒ムエタイを無骨にまで追及する魂を継承する場なのである。

「ZONE」は、まさに全日本キックが復活した姿なのである!

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